鶴間カトレアダンススクールのホームページをご覧いただきましてありがとうございます。
先代(母)の後を引き継ぎまして現代表をしております加藤佳恵と申します。
これからもより一層地元に根付いたアットホームな教室を目指して日々精進いたして参りたいと思います。
何卒よろしくお願い申し上げます。
しばらくブログをお休みしていてすみませんでした。
プライベートですが、次女に子供(女の子)が産まれ(私にとって2人目の孫)
時間的余裕がありませんでした。
今日は最近のパワハラについて書きます。
教える立場と教わる立場、練習場や試合場、限られた場所で限られた人達だけに通じる、一般の人から見たら異様と思えるような様々なことがクローズアップされています。
ダンス界の常識は社会の非常識、ダンスをボクシングや体操、水泳に置き換えてもいえると思います。
ずっとその中に身を置いていると技術の向上にだけ目を向けてしまうことの危険性。
自分にも言えると思います。
衿を正して、社会の常識の中で認知していただけるようにしなくてはいけないのだと反省しています。
生徒さんとコミュニケーションのとれる関係を作っていきたいと思います。
1ヶ月おきのダンスパーティーを教室で開催するようになって、2回目が今日でした。教室の広さの関係で、40名までに、限定しています。男女ほぼ同数参加して下さいます。それでも一度に20組踊ることはできないので、2ヒートに分けています。同じスクール生でも普段会うことができない生徒の皆さんが親睦と練習の成果のため、参加して下さいます。
ともすると、教えることがダンスのすべてになってしまう私にとって、生徒のみなさんが楽しかったと言って下さることで、踊ることの喜びを再認識できます。
踊って相手が喜んで下さる。それがダンス本来の姿です。その事に気付かせてくれる楽しい1日でした。
現在私は88才の母の介護をしながらレッスンしています。幸い自宅とスタジオが同じビルの中なので、可能になっています。
仕事とプライベートの切り替えは、階段を上がったり下りたりしています。
キャリアを諦めずに介護できる女性が子育て、介護、プライベートの充実をしながら、社会に貢献していくことが何の不自由なくできる世の中を、私が生きている間に実現できるように毎日祈っています。
一人一人がこれ以上ない程、ギリギリのところで頑張っているのが今の日本。
でもそれほどつきつめてはいません。適当に息抜きしながらやっています。それには素敵な音楽に乗って踊ることです。仕事の中に最高のリフレッシュがあります。毎日感謝してダンスできる環境で前進して行きたいと思っています。
新年を迎えました。
ダンスの神様について書こうと思います。
ダンスの神様はどこにいるでしょう。
それはフロアー床にいます。
社交ダンスはタンゴとジャイブ以外は、特別なステップを除いて床から足を上げません。
床をすべって動いています。
だから床をたたく大きな音をさせません。
大きな音をさせるとダンスの神様は味方になってくれません。
床をつま先やかかとがこすっている小さな音だけ許されます。
そうやってフットワークを学んで、神様に、踊っていいと認めてもらえるダンサーになりましょう。
なつかしい生徒さんから年賀状をいただきました。ブログを読んで下さっていると書いてあり、とてもうれしく思いました。
ありがとう。
最近TVで社交ダンスを取り上げてくれています。一般の方にももっと知っていただいて興味を持っていただき、そしてやってみたいなとなっていくことを期待します。生涯絶対やらないと思っていたことにチャレンジしてみる我が旦那は、そう思って始めたダンスが今職業になっています。
不思議なものです。
1987年に教室を出し、その当時娘二人は9才と7才でした。子育てとレッスンで1987〜1990年代は世の中でどんな歌が
流行っていたか、どんなファッションが流行したか全く思い出すことできないくらい忙しい毎日でした。若かったからできました。今同じ事をしなさいと言われてももうできません。でもあの日々を充実と言うのでしょう。どんな人にもそんな日々がありますよね。
さて、つぎはスタッフをどうするかという問題です。生徒さんの中には先生になっても大丈夫なくらい踊れる方が何名かいましたが、みな先の保証のない社交ダンス教師には二の足を踏みました。福利厚生のしっかりしている会社勤めでしたので、もし怪我でもして踊れなくなったらと、最悪の状況を想定すると、好きなダンスを職業にはできなかったようです。
母と私の2人で始めました。
よく衝突しました。母はダンススクールは男性のプロの競技選手が経営していくのが筋であって、43歳で、先生の資格の取得し、その当時56歳だった母はそんな分不相応なことをしては、他のスクールを経営している先生方に失礼だと、なかなか賛成してくれませんでした。私は一流の競技選手の先生とは一線を画する教室があってもいいのではないかと思いました。いろいろなニーズがあり、私にでもできることがあると確信していました。
その後レッスンに通って下さる生徒さんの中に、今の仕事をやめて教師になると言って下さった方や、働きたいと入社して下さった方が出てきて、体制が整っていきました。次回は働きながら、主婦、母を両立する事を書きたいと思います。
30年前、1987年当時社交ダンススクールは風俗営業法で定められた条件を満たさないと営業できませんでした。
この法律は昨年平成27年に改正され、社交ダンススクールは除外されました。
3年に1度国家公安委員会主催の講習会があり、当時当スクールは2か所で営業していたため、3年に2回義務として出席していました。
結構な頻度でした、また、営業許可を取得するため、地域の警察の防犯課に書類を提出し、受理されるまでにしばらく時間がかかり、その間も家賃を払わなければならず、金銭的にも大変な時期でした。
公安委員会の方が条件を満たしているか、確かめに見え、どきどきしたのを覚えています。
いろいろな手続きを経ないと、レッスンができなかったのです。
どこでも簡単に社交ダンスは踊れなかったのです。
今のように公共の施設で毎日の様に、まるでダンスホールのようなことはできなかったのです。法的に社会的に認められた形で社交ダンスを教えるにはいくつかのハードルがありました。プロとしてとても不公平だと今でも思います。
公共の施設の方にその話をしても「市民のみなさんが楽しみでやっているのだから、プロの先生方には関係ないでしょ。」と一蹴されました。
鶴間カトレアダンススクールは来年の2月で30年を迎えます。30年前の今頃、当時32才の私は、バブル期の日本と同様どんどん入会して下さる生徒さんを24畳の自宅の板の間でのレッスンに限界を感じ、近くに広いフロアーを探し始めました。
駅前のビルの2階、そのビルを通りで挟んだビルの1階、そして自宅前のビルの1階、候補はこの3つでした。
それを仲介している不動産屋さんに出向きました。不動産屋さんはなんの商売をするのかと聞くので、社交ダンススクールをやりたいと答えました。すると、「今鶴間には一軒小さなダンススクールがあって生徒であふれているので、格好の商売」と言われました。まさに私のスクールのことでした。
そんないい時代から始まりました。
少しずつ30年前を振り返って書いていきたいと思います。